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歴史とか 2015.05.02 (土)
前回は巨椋池と大井、鴨の両河川の話を書いた。
続きに平安京と水の話を書いてしまいたいのだが、どうしたものかと今、悩んでいるところである。
まず、面白くもなんともない話を書いておくと、都市を支えるには大量の水が不可欠である。
それを支えるのに、平安京は大路小路に側溝を設け、町中に水を巡らせていた・・・・・・。
これでは面白くも何ともない。
平安京の水事情がいかに特殊であるか、さっぱりわからない。
さて、どう書いたものだろうか。

都市と水、という話をするとき、私が真っ先に思い浮かべるのはローマの水道である。
ローマはアーチを発明して石造りの水道で水源地から水を引いて街中には噴水、大浴場を作ってコロッセウムを水で満たして大衆の娯楽として水軍の演習を見世物にしていたという。
これはもちろん、いかにローマが凄かったか、という話なわけであるけれども、なんでコレが凄い話であるかと言えば、ここまで水をふんだんに使えること自体が驚くべき状態、それをやり遂げていたローマの技術と国力は凄い、こういう話であろうかと思う。
しかし、こんなもの、と言うと世界中からヒンシュクを買いそうであるが、平安京では当たり前の話である。
平安京の街路には側溝がつけてあり、町中に水が巡っていた。
その水を貴族らは邸宅に引き入れて池庭を造り、そこで船遊びをやっていたのだ。
同じ人口の池でも国家事業でコロッセウムに船を浮かべていたのと、個人が思い思いに自宅に舟を浮かべて遊んでいたのと、どっちがもの凄いかと言えば個人のほうに決まっている。
もっと言えば、ヨーロッパの連中がワインを飲むのは水の代わり、生水が飲めないのでワインである、というような話があるそうだが、実際、外国人が日本に来ると水道水が飲めることに驚愕するという。
現代でもこういう状況であるというのに、平安京は湧き水だらけだ。
京都の地下には琵琶湖の水量を上回る地底湖が存在し、どこを掘っても銘水のような水が出る。
京都の湯豆腐も和菓子も京野菜も漬け物も、この清らかな水あってこそのもの、都の食文化を支えていたものは水であったと言って過言ではない。
平安京の水事情は、ローマなど問題にならないほどよろしく、たぶん世界的に見てこれほど水を贅沢に利用できた都市はほかに例がないのではあるまいか。

さて、その豊かな水が平安京の中でどうなっていたのか。
その話である。
先ほど、京都には地底湖がある、と書いたわけであるが、京都はあっちこっちで水が湧いている。
その中でも最大のものは元の神泉苑の水源らしい。
今の神泉苑は小さな池に過ぎないが、そもそもは朝廷の行事で船遊びをやるほど広大なものだった。
どうして今はあんなに小さくなったのか?
それは江戸幕府が二条城を作ったときに、神泉苑の水源を縄張りに取り込んで堀の水の足し前にしてしまったからである。おかげで神泉苑の水量は激減、今は船遊びどころかラジコンボートでも苦しいぐらいのちっぽけな沼になってしまったという次第である。

湧き水があるということは、京都盆地に流れ込む水が多いということである。
実際、京都には川がたくさんあったようだ。
「堀川」「今出川」というような「川」の名前がついた通りが京都にはあるかと思う。
現在はアスファルトの道路になっているが、あの下には今でも川が流れているのだ。
平安京は大路小路に側溝を設け、こうした湧き水や河川の水を洛中の隅々に巡らせていたという。

ところでその側溝の水がどのように利用されていたかというと、これは貴族らの邸宅に引き入れられ、飲料水以外の生活用水、それから池庭の遣り水などに用いられていたようである。
貴族の邸宅について書いておくと、まず標準的なサイズはひと町、大路小路で区切られた碁盤の目一個分である。
2町以上あるのは摂関家の東三条殿のような豪邸で、ちなみに京都御苑は8町、今は跡形もない大内裏は80町あったそうである。
このように書くと貴族らの邸宅がちっぽけに思えるかもしれないが、碁盤の目の一つ分というのはかなりな広さであるから、京都御苑や大内裏のほうがケタ外れに巨大、このようにご理解願いたい。

平安京の貴族の邸宅、と言えばたいがい例の寝殿造りというやつである。
母屋の左右に対屋を配し、南面に池、北面の庭と菜園や果樹園、という格好になっているのが一般だろう。
側溝の水はこうした邸宅の中を経巡り、そしてまた側溝へ戻り、洛中をぐるりと回って鴨川へ排出されてゆく、という格好であったらしい。
つまり、平安京は街路も住居の中にも水が走っており、たとえば官庁街の周辺、名族が邸を構えるあたり。。。だいたい三条から北側の左京あたり、そこらは今の京都御苑のような情景が続いていたのではないだろうか。
今でも京都御苑のあたりは夏でも涼しい。アスファルトの舗装も自動車の廃熱もなかったこの時代の平安京は、水に覆われた涼しげな街――今と比べるから涼しげに思うだけかもしれないが――だったに違いない。

おしまいに余計な一言を書いておくと、寝殿には便所というものが存在しなかった。
王朝人がどうやって用を足していたかについては私も十分には知らないが、たとえば高貴な身分の女性であれば屏風に隠れて「おまる」にするように、それ用の筥にやっていたらしい。
もちろん、そのまま大事にしまっておくわけもないので、筥は「桶洗童(ひすましわらわ)」という童女が下げ行き、処分する。その行き先は言うまでもなく側溝の水、である。
高貴なご婦人でこういう状態であるから、あとは推して知るべし、武者だの庶民などはもう垂れ流しだろう。
その水は洛中を巡って優雅な船遊びの池に・・・・・・。
落花流水の漢詩を詠ずる文人の前を・・・・・・。
恋の歌を枝に結ぶ公達の足下に・・・・・・。
そして、水は鴨川に流れ込む。
鯉や鮒がそれに混じった●●を喰って太り、庶民が釣り上げて売りに行き、珍味佳肴として貴紳の食卓に並ぶ。

この世を穢土であると思う者が肉食を断つ理由はこれだったのではあるまいか、そんな気がする。
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歴史とか 2015.05.01 (金)
此の国の山河襟帯にして自然に城を作す
斯の形勝に因りて新号を制すべし
宜しく山背国を改め山城国となすべし


「山城」の語源となった桓武帝の詔の言葉である。
三方を山、南に平野を控える京都盆地。
その中を流れる二本の河川、大井川と鴨川を天然の堀として平安京は造営された。
この文言は平安京の軍事的側面について語られる場合によく引用される。
しかし、大井、鴨の両河川は平安京とこの世界をつなぐ橋のごときものでもあった。
かつての大井と鴨の流れは平安京の側溝のような感じで南へ流れ、鳥羽のあたりで合流するような格好で巨椋池に注ぎ込んでいた。

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これは巨椋池の写真であるが、この池はもう存在しない。
現在はインターチェンジにその名を留めるのみである。
どうしてこの池が今は存在しないか?
明治政府が干拓事業をやってしまったからである。
例の富国強兵、産業増進であくせくやったときに、薩長の連中が池を田畑と土地に造り替えてしまったのだ。

巨椋池は平安京の命綱――おそらくは京都が本朝の首都であった長らくの間、少なくとも江戸幕府が政権を握る以前を言えば、この日本列島でももっとも重要な水上交通の要衝であったと断言できる。
巨椋池は平安京の南、周囲16キロの池であったわけだが、この池は木津川、淀川にも繋がっていた。
つまり、巨椋池は水路で奈良、大坂に接続していた、というわけである。
なんだ、船か、と思うなかれ、現代の話はともかく、鉄道輸送が存在しなかった時代の大量輸送は船と決まっている。
実際、世界的に見て港湾をもたない、つまりは水上輸送とは無縁の首都などは存在しない。
これは首都が必ず大量の物資と人員の輸送を必要とするためである。

奈良、大坂との接続だけでは巨椋池の重要性の説明には不十分である。
巨椋池のあるあたりからは琵琶湖が近い。
琵琶湖で船に乗れば敦賀、関ヶ原へはすぐに着く。
日本海側へ抜けるにも、東国へ向かうにも好都合、というわけである。
つまり、巨椋池に入りさえすれば、瀬戸内でも日本海でも、というわけである。
渤海から来る商人は敦賀から入国していたようであるし、唐や宋からの文物は鎮西から瀬戸内を経て都に入る。
いずれも巨椋池から入って来る、というわけである。
余談をしておくと、平安の頃に檳榔毛の車というのがあったのをご存じだろうか。
これはヤシ科の植物の檳榔で車を覆ったものだったかに思う。
四位以上の高位の者、親王や大臣でなければ許されない高貴な乗物だったわけであるが、檳榔は九州にあった摂関家の島津荘から都に送られており、藤原摂関家が独占していたらしい。
この檳榔は東南アジアの産品、、、たぶんフィリピンとかインドネシアとか、そのあたりかと思うのだが、とまれ、琉球を通って島津荘、そこから平安京に到達する、という格好だったようである。
つまり、平安時代の時点で、平安京はすでにアジア全域と当たり前のように繋がっていた、というわけである。

ところでこの巨椋池は歴史ドラマ、歴史小説にはほとんど出て来ない。
しかし、実際は様々な歴史的舞台にはなっているはずなのであるが。
平安時代と言えば藤原摂関家であるが、摂関家の本拠地の宇治は、宇治川が巨椋池に注ぐ河口のあたりである。
保元の乱の直前、摂関家の氏長者の藤原頼長が乱闘事件を起こした際、頼長の父の忠実は船で上洛する途中だった、とあるから、巨椋池から鴨川をさかのぼったのだろう。同じく頼長は保元の乱で負傷した際、大井川から小舟に乗って木津川を通って南都へ逃れ、敗死している。これもまた巨椋池を通過したに決まっている。
あるいは伏見港は巨椋池に開かれた港である。
秀吉は淀川の水辺に淀城を設置、そこに水軍を配置してガッチリと巨椋池を守り込んでいた。
秀吉の晩年の居城となった伏見城の天守からは大坂城の狼煙が目視できたそうである。
つまり、なんぞあったら巨椋池を通って船で即移動、こういう格好になっていた、というわけだ。
ちなみに、平安京から大坂まで船で移動する場合の移動時間は、下りで四時間程度であったらしい。

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