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大占術 2016.03.15 (火)
ワンコに絡まれる、という占星術的なボクの宿命について考えていたのだが。
一応、その意味をもう少し詳しく書いてみれば、どうもこれは、ワンコが童心に返ってしまい、本性剝き出しになる、このようなものであるらしい。
しかし、それにしても、である。
なんでこんなものに昔の占星術家が一々言及したのか?
よく考えてみればこれはチョット妙な話である。
なぜと言って、本格的な占星術なんて、大昔なら貴族でもないなら一生縁がないものだったはずだからだ。

本格的な占星術なんて、真面目にやったら電子計算機があっても何日もかかる。
球面幾何学だの三角関数だのは当たり前、こんなものを使ってコツコツやるのだ。
まァ、当時の鑑定士は理系の学者さん、天文学者みたいな連中であって、相当なインテリだと思って欲しい。
今でこそ本なんて安いもの、知識はネットでいくらでも手に入るから、当節のインテリは値打ちがない。
しかし、そもそもを言えば知識というものは、非常にお高いものだった。
二十世紀初頭に書籍は工場で大量生産をやるようになったわけだが、昭和初期の文庫本、つまり大衆向けの廉価版の書籍は、今の金額に直すと5000円ほどもしたのである。

しかし、カネで買えるようになっただけまだマシ、という言い方もある。
これが手書きの時代に遡るともっとえげつない。
書籍は買うものではなく、自分で書き写すもの、カネを出しても売ってもらえないからだ。
平安の頃に大陸から渡ってきた書物を、納言の大江の某が勅許をいただいて書き写した写本、それの写しが伝承ではあそことココに何冊、その一冊の写しの写しの、そのまた写しが父祖伝来この一巻である、というような具合である。
貴重も貴重、超貴重品である。
江戸の頃の滑稽本や講談まがいの娯楽本はともかく、室町以前の学術書なんて、今の感覚で言えば、どこぞの大名家に代々伝わる平安の名刀だの、坂本龍馬が愛用したピストルだの、あるいは千利休愛用の茶道具だの、まずもって家宝、どうかすると今で言う重要文化財、国宝まがいのシロモノである。
まァ、定家直筆の歌集でも、例の最古の聖書、死海写本でもいい。
こういう文化遺産レベルのシロモノを、

書き写したいので貸してください

なんて、許してもらえるわけがないぐらい、現代人でも理解できるかと思う。
手書きの時代の知識とは、かくも厄介で敷居の高いものだった、このように思って欲しい。
平安貴族なんぞになると、その書物を持っているかどうか、それが出世できるかどうかの境目だったりもする。
写本を作らせてもらえる、それだけですら特権だったりした。
これぐらい書物や知識が貴重だった頃の天文知識、こうもご大層な占星術が、

ワンコと人間の相性

変な話である。


まあ、たしかに?
石器時代の人骨と一緒にワンコの骨も出て来るらしいから、人類にはワンコは最古の家畜ではあるのだけども。
しかし、そうは言っても相手はワンコだ。
当時の占星術家と言えば、王侯貴族の相談役、政治顧問みたいなもんだろ?
クソ忙しい安倍首相が政治顧問に向かって、

ボクはワンコ一般に人気があるだろうかね?

てなこと、大金払って真剣に相談するか?
そりゃまァ、一国の宰相、為政者とて人間であるからには、家族問題そのほか、至極当たり前な人間臭い悩みはあるだろう。
実際、国のトップのちょっとした癖やら、王侯貴族の兄弟の不仲が内乱の引き金になったりもするから、占星術もそこらを鑑定する手法はあって当然、こういう気はする。
でも、それでもやっぱりワンコはないわ

なんなのだろうナ、コレ、と、ボクよりずっと頭のいい知人に戯れ言半分に言ってみたら。
賢明なボクの友人はこう言った。

狂犬病の犬に噛まれたら死ぬでしょ
その暗示のある人は犬に注意しろってことではないのかな?


なるほど(・∀・)

ニャンコの話を書こうとしたのに、なんかまともな記事になってしまったようだナ。
ニャンコの話は次にしようかと思う。
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大占術 2016.03.14 (月)
犬猫やらの家畜に絡まれる宿命を負う男、昨日はそんな話だったかに思う。
少し補足がある。
正確に言うと、好かれる、というよりは、一々挑まれる、とするほうが適当かもわからない。
ナメられている、というのもチョット違う。
どうしてそうなるのかはともかく、家禽どもはボクを見ると、なぜか対等の土俵に乗ってくるのだ。
それが親愛の情である場合はほんとうにダチ公レベル、ライバル意識剝き出しなら襲撃、こういうことになるのだ。
たとえば犬好きの人と話をしていても、ボクが子供時代に舎弟にしていた白い秋田犬とボクの関わりの話をすると、たいがいオドロキのエピソードばっかり、のようである。
あの犬は、散歩がしたい、と思ったら教えもしないのに、自分でリードを咥えてやってくる。
それをボクの前に置いて、胸を張って「お座り」、威儀を正して、

さあ、散歩に連れて行ってくれたまえ

というような顔をする。
あるいは、ボクが細々と機械部品を広げて作業をしていると、その脇へ来てやっぱり「お座り」、何か感慨深そうな面持ちで機械部品をボクの顔を半々に見て、そのうち、ボクの動きに合せて、機械部品に向かって、「お手」「おかわり」とやり出す。
あるいはヤンキー風のウンコ座り、つまり不安定な状態で草むしりなんぞをやっていると、体当たりで押し倒し、馬乗りになって顔を舐めたり――。

さあ、どうだ(・∀・)

こんな感じなのだナ。

脱線して恐縮であるが、秋田犬には茶色、白、虎毛の三種類がある。
どれも秋田犬、とされてはいるが、毛色が違えば性格もずいぶん違い、まるで別の犬、と言ってもいいぐらいである。
まず、茶色は優等生である。
真面目で温厚、肝っ玉の据わった寡黙な感じ、ややものぐさでのんびりしている。
虎毛と白は実際に飼っていたからよく知っているわけだが、もうまったくの別犬種、というほど性格が違う。
虎毛は繊細で線が細い。メスは誕生数「7」のような美少女系、とてもプライドが高い。
ボクが飼っていたのはオスだったが、頭は良さそうだったのだが、どこかしら思考が硬直しているような感じがあり、従って怒りっぽい感じである。気難しいオレ様系で、ぶん殴るとすぐにいじけるので腫れ物に触るように扱っていた覚えがある。
白はクソガキ風で陽気、虎毛よりは扱いは気楽で済む。
ただし、シャレにならないイタズラをしょっちゅうやる。
昼寝をしている飼い主のツラに小便をひっかける、たくみに「ささみジャーキー」のありかを探し当てて無断で全部喰ってしまう、サンダルの片一方無断で持ち去って犬小屋に隠す、作業をしているとわざわざ邪魔なところへやってきて丸くなる、やめろ、というのに一々他所の犬にじゃれついてゆく、白はそういう、「懲りない奴ら」という感じで、ボクは年中あの白い秋田犬をぶん殴っていたのだが、ほぼ糠に釘、バカなのかこいつは、と思うぐらい、こっちの言うことを聞き分けてくれない。
ところが、やっていいことと悪いことははっきりわかっているらしく、「これはさすがに」ということをやってしまったときの、後ろめたそうな顔といったらなかった。
余談をしておくと、この白秋田は、我が家に来た三日目にして家族から総スカンを食らった。
まず最初に、二歳半で発達の止まった団塊男のボクのクソ父が、抱っこをしようとしたところ噛みついたらしいのである。
名前を呼んでもミルクをやっても振り向きもしないのだ。
それで憤慨したボクのクソ父――子犬に嚼まれた、相手にしてもらえない、それぐらいで本気で怒る、この男の人間的未熟さのほうがよほど深刻、と当時小学生だったボクは思ったのだが――が、

生まれつきアホなんちゃうか、この犬

と大騒ぎしたのだ。
おかげで母も兄もこの犬はかわいくない、と犬を糾弾、捨てるだの保健所に送るだの、皆さん物騒なことを言うのでボクがこいつの身元引き受け人になったわけなのだけれども。
なんでそうしたかって、どことなく、あの犬がそのとき、困惑しているような感じがしたのだナ。
子犬だからって、ぬいぐるみみたいに扱われて、どうしていいかワカラン、そんな顔をしている気がしたのだ。
それがボクには、他人事のようには思えず――つまり、ボクも家族にはいつも困惑していた――、ついついかばってしまった、というわけなのである。
まァ、しかし、育てにくい犬だったナ。
たぶん、初心者にオススメできる秋田犬の順番はきっと、

茶色>>>>>虎毛>>┃超えられない壁┃>>>>白

こういうことになるかしら。

何の話を書いているのかしら……。
占いの話ではなくなってしまったナ。
またそのうちに書こう。

大占術 2016.03.13 (日)
ココナラからはこちらのブログへは到達できない格好になっている。
それは、ココナラ同業者に読ませないため、気楽に占いの話も書くつもりだからである。
連中がナニをやるかって、ボクの語り口まで盗んでもっと素人ウケのいい霊視サービス、挙げ句にレディスピで

黒サンタって、霊視の●●●●さんにそっくりですよね

なんて書いてくれたりするわけダ。
つまり、ボクが真似をしているまがい物、本家はこっち、こういう印象操作だナ。
サービスのスタイルもそっくりなのだそうである。
文体はブログの記事を読んで研究したんだろ。
占いでも売り文句でも、あいつらはすぐにパクリをやるからナ。
他人のパクリしかやらん奴らのことだ。
チンチンと胃袋しか使わない生活のせいで、知能の発達がホタテ貝の脳味噌レベルで止まっておるのだろうナ。
ま、たぶん、実はカネ儲けがやりたいのではないのだろうと思う。
テメエの頭がクソ過ぎるから、まともに頭を使ってる奴の邪魔をしたい、それだけだろ。
パクって安売り、それで相手より上になったら

気持ちイイぃぃぃぃ☆

……ホント、スピ屋ってこんなのばっかりだよナ。
幼児体験の悪い奴とは関わらないのがイイ。
こっち見んな、シッシッ、である。


さて。
この間から自分のホロスコープをずいぶん真面目に見ているのだが、先日は変なものを発見してしまった。
なにのどこをどう読む、という話はともかくとして、どうやらボクは、

ワンコに興味を持たれる

というような暗示があるらしい。
好かれる、というのとはちょっと違う。
ワンコがボクを見ると、

貴様はオレのボス犬になってみる気はありませんか(´・ω・`)

このようにアピールしたくなる……感じらしいのだナ。
言われてみれば、ボクは昔からワンコには好かれるというか絡まれるというか。
何かと言えば吠えられるし、友人らと歩いていて犬がやってくると、必ずボクのところに来る。
気立てのいいワンコだったら目を白黒させながらシッポ振って飛びついて来るし、好戦的な奴なら襲いかかって来る。
とにかく、ワンコという連中は、ボクを見るとスイッチが入ったように夢中でじゃれて来るので……日頃はワンコと目を合わさないようにしているのだが、それでも真っ直ぐこっちへ来るのダ。

ワンコに好かれる、という星の配置があるのなら、占星術的にニャンコに好かれる宿命はないのか、と探してみたが、どうやら占星術にそういう暗示はないらしい。
しかし、よく考えてみると、実はニャンコにも……よく絡まれる。
これもリクルート系で、面倒くさがりのボクは道端のニャンコに興味などは示さない。
しかし、向こうのほうはそうでもないらしく、塀の上をターッと走ってきてボクの前にひょいと着地、足下でゴロニャン、なんぞとやってくれるわけダ。
なんだ、このネコは、と捨て置いてそのまま行くと、ネコのほうでは

シマッタ

というような顔をして、またターッと走ってきてボクの前に回り込み、ゴロニャン。
どうかすると通り道で同じネコが待っていたりすることもある。
そういえば、という話のついでに書くと、見ず知らずのネコが追いかけてくる、待ち伏せている、と知人のネコ好きに言うと、

そんなのナイナイ

とのことで……ここまで、というのは珍しいようだナ。
もしかして、この星回りって、ニャンコにも?

そう考えてみると、実は馬にも……。
時代祭とかを見物にいくと、いつも行列のサラブレッドに目をつけられる。
必ずガンを飛ばして威嚇して来るのだ。
六甲山で木曽馬には噛みつかれた。
性格の悪いサラブレッドとは違い、一応は友好的な態度だったらしいが、それでもあれは痛かった。
柵越しに眺めていると、たくさんいろんな人がいるというのに、なぜかじわじわとボクの目の前までやってきて、馬躰を柵に横付け、

撫でろ

と目に言わせて横目でこっちを見るのだナ。
で、鼻面に手を伸ばすと、掌を唇でハミハミ……奴らの口元はやけにソフト、どうかするとワンコよりソフトである。
ああ、懐いているのかナ、と思っていたら、いきなり

ガブ

まあ、あの体格、あの歯のことだ。
もし奴が本気だったら、今頃ボクの指は二本か三本ぐらい欠けていたことだろうと思う。

と、ここまで書いて、ほかに生き物に好かれるケースを考えてみると、人間の乳幼児である。
公園で煙草なんぞをやっていると、三歳か四歳ぐらいの女児に熱い視線を送られるなどして困惑する、というのがよくある。
下手に絡まれて、ロリコンだの変質者だの言われても困るので、おぢさん、そういう気分ではないので、と視線を合わせないようにしていると、顔の前まで回り込んできて、じーっとこっちを見ていたりするわけダ。
男の子でもそういう感じで、気を許すといきなり跳び蹴りを食らわされたりする。

ま、しかし、オトナは……いわゆる典型的なオトナ、というのはボクのことは嫌いだナ。
常識が無いとかアブナイとか。
肌感覚でモノを考えない奴とは仲が悪いからナー。

この、ワンコに興味を持たれる、というのは、

肌感覚の付き合いの好感度

を示す星回りなのかしら……。


雑記 2016.03.12 (土)
前回のぶりのアラでやった卯の花は甚だ美味だった。
しかし、まだちょっと、醤油と砂糖の加減に若干の……改良の余地を感じたことも事実である。
そして、その卯の花は、今日の晩飯で尽きる。
と言うわけで、このままでは明日に喰う卯の花がない。
性懲りもなく改良版を製造すべく、さきほど土曜日のタイムセールを襲撃してきた。
天然ヒラメのアラ、鮭のアラでやるともっとウマそうだ、とも思ったので、そこらのブツを物色しに行ったのだが、残念なことにやはりぶりしかアラは並んでなかった。
またぶりでやるか、と思ったところ、その脇にぶりの切り身200円、を発見。
おそらくは刺身を取ったときの切れっ端、アラ、とするには惜しい、しかし、切り身でございます、とするのも憚られる、そういう感じの山盛りパック、このようにご理解いただきたい。
正直、アラの卯の花は……もう少し魚肉っぽい感じが欲しかった、というのもあり、それにした。
ウハウハ小躍りしながら豆腐のコーナーを覗くと、なんとおからが半額
有頂天で帰って来たところである。
むろん、ニンジンは金時ニンジン、ぬかりなくちくわも食品添加物のない四本68円のものを手に入れた。
今からさっそくに処理してみようかと思う。

四十代のおっさんがこんなツマランことでウキウキするのもどうかとは思う。
しかし、生活を楽しむとはつまりこの程度のことではないのか、そんな気もする。
というか、無一文になってからのほうが生活が愉しく、体調がいいとは何たることであるか?
貧乏もやってえみるもんだナ。
悪くないョ。
ウンウン。
雑記 2016.03.10 (木)
今日はぶりのアラを50円で買った。
たくさん売っていたから、ぶり大根でも、と思ったのだが、最近は「おから」に夢中である。
正直、スーパーで買うせいか、あんまりお安いとは思えないのだが、ほぼ白米の代用品のように
喰っていると、身体が軽くて気分がイイ。
完全に精進料理のような卯の花ばっかり作っていて、チョット飽きたから、今日は魚のアラを探したのダ。
あとでじっくり作って愉しんでみようかと思う。

それはそうと、伊集院光のラジオ放送で知ったことなのだが、魚類を「さかな」と呼ぶのは日本語として間違っているらしいナ。
「さかな」とは「肴」、酒の肴のことであり、要するにご馳走、ウマいもの、おかずのことらしい。
古来より日本で動物性タンパク質と言えばつまり魚介のことである。
酒の肴のご馳走と言えば魚肉、というわけで、魚類一般を「さかな」と呼ぶようになったとかナントカ。
従って、魚類は「うお」とするのが正しい日本語なのだそうで、アレを「さかな」とするのは間違いらしい。
「さかな」とは酒の肴のことなのであり、魚類のことではないのである。
ま、一万円札のことを「諭吉」と呼ぶのは正しくなくて、一万円札だとか日本銀行券だとか、法定通貨と呼ぶべきである、こんなような話だナ。

ボクはこの歳まで、小説なんぞをやっている癖にぜーんぜん知らなかった。
伊集院光を見直したゾ
大占術 2016.03.08 (火)
あっちのブログとココナラは放置することにした。
この一年半ほど占い師をやって、しみじみ己という人間の具合の悪さが身に染みてしまった。
もはやこれ以上、己の傷に塩をすり込むような真似はするまいぞ、今はそんな気分である。

ホロスコープ的に言って、ボクの生まれつきはもの凄く変である。
どう変であるか、それは一口に言い表せない。
とにかく、一々長所の部分が使えない、あるいはそれを使うとドツボにはまる、という星回りなのだ。
まず、知性と忍耐、敢闘精神、それからバランス感覚がいいらしい。
そして、これが抜群なのだが、霊感と直観力!
このボクには、適性の高い職業が三つある。
まず一番性に合っているのが軍人、その次が学者、オシマイが占い師だ。
軍人、というのはホロスコープにはっきり出ている。
ま、軍人に適性がある、というのは、人間としては最高の賛辞に等しい。
軍隊の指揮官は頭脳、身体、精神、すべてにおいて卓越した資質がないと務まらないからナ。
裏を返せば、指揮官になれるぐらいの人材は、能力だけを言えばたいがい何でもできる、というこったョ。
知的な側面を重く用いれば学者、戦場での直観力(霊感)のほうを伸ばせば占い師、こういうことである。

うほっ、ボクってイケてるw

このように思いたいところなのだが、軍人と学者、この二つは、たしかにかなり成功するらしいのだが、

「上から睨まれて潰される」
「悲惨な死に方をする」


というのも付いている。
これには身に覚えがあって……。
小学校の頃から、ボクは上からのお目見栄が非常に極端である。
ものすごく評価してもらえるか、蛇蝎のごとく嫌われて弾圧されるか。
どっちかしかない。
実は大学生の頃、自衛隊の幹部候補生も学者も、どっちも考えたことがある。
しかし、自分は組織人に向いていない、そう思って諦めた経緯があるのだナ。

で、組織人ではない占い師、もうこれしか残っていないのだけれども。
これも非常に適性が高いようで、霊感に関する暗示がすべて揃っている。
全部だ。
ひとつでもあったら占い師か霊能者、みたいなのが、全部並んでいるのだよ!
そう、超霊感体質。
ところが、別の暗示では、

霊感はカネに結びつかない

……飯のタネにならんそうである。




どうやったら飯が食えるようになるか?
それもホロスコープには出ている。

人前に出る目立つ商売
気持ちイイ☆
愉しい♡


……とても嫌な星回りである。
ものすごく恥ずかしがりなので、とにかく人前に出たくない。
そして、ホロスコープにあるボクの弱点もそこらで、

人前に出ること、目立つのは大嫌い

つまり、ボクの一番得意なはずの知性も敢闘精神も関係ナシ
嫌でたまらないものが一番儲かる



飛行機にたとえていえば、だ。
戦闘機として設計してあるはずが、


戦場にはまず不向き
それで出撃したらきっと死ぬ
一番イイのはサーカスの曲芸飛行


こんな感じだろうか?


この一年半ほどココナラ占いやって痛感したョ。
やっぱ、占星術って当たるもんだナって。
鑑定屋ったら、当たる、当たりってみんな喜んでくれるんだぜ?
実際、お悩み解決したとか、絶対に辞めないでくれとか、いっつも言われる。
だけど、ぜんぜん依頼が来ない

そりゃまァ、問題が解決したら占い師なんか必要ナイョ。
自分で自分の首を絞める占い師――そういう言い方もあるかもわからん。
やっぱ、これで喰おうなんて、考えるもんじゃない、そんな気がしているところである。

ま、占いは開店休業状態でもういい。
ボクはこういうのでは喰えない男なのだろう。
アレはこのままほったらかしにして……やっぱり執筆に専念しようかと思っているところである。
雑記 2016.03.04 (金)
去年の末から作品を書きたいという意欲だけはあった。
そして、これぞ、と思うネタも思いついていながら、ついついサボってしまい、気がつけば三月である。
サボってしまった、というのは適切ではないかもわからない。
実は、書いても書き切れない、きっと何かしら不徹底な作品になりそうである、そんな「予感」があった。
だからズルズルと書かないまま、今日という日を迎えてしまったのだ。

どういう予感であるか、それは大変に書き辛い。
問題は僕の中にある美意識の分裂である。
僕の作品はとても極端なものになりやすい。
悲劇的で美しい作品になるか、超お下劣でナンセンスになるか、どちらかである。
ちなみに、一本だけ、悲劇的に美的、それでいて腹筋が崩壊するほど面白い、というのを書けたことがあるのだが、この作品は、商業出版を前提する場合、おそらくはテーマが深刻に過ぎて一般大衆には受け入れてもらえないだろう、という気がした。
事実、非常に評判は良かったのであるが、読んだ人の感想と反応はあらゆる意味で真っ二つだった。
不道徳極まりない、絶対に許せない、という人と、人間存在の真理を突いている、という人と。
とても厳粛な気分になってしまった、という人と、小説を読んでこんなに笑ったのは初めてだ、という人と。
僕としては人間の宗教性、永遠性への渇望が、時に滑稽至極で切ない、ということを描いてみたに過ぎなかったのだが、大多数の人にとっては甚だ残酷な仕上がりで、あれはプロ志向の作品として失格だったろう、と思ったかしら。
つまり、僕はまだ、十分に納得できるものを一度も完成させたことがない、と言ってもいい。

悲劇的な作品を描くと、読みたくない人も多いだろうな、と思ってしまう。
お下劣ナンセンスをやると、それが僕にとっては、実は「誤魔化し」「照れ隠し」「詭弁」「逃げ」でありやすい。
そもそも「笑い」というのは「ストレスと緊張の緩和」なのであって、ユーモアというのは常にある種の妥協、誤魔化しだ。
僕が小説に描く「笑い」、ユーモアにも多分にそういうところがある。
どうも初手から腰が引けている感じ、何か世間に遠慮のある感じ、媚びてしまっているというか。
阿諛追従の輩の醜悪さ、というべきものが文面全体に滲んでおり、僕は自分のこの種の作品が、実はあまり好きでない。
しかし、やっぱり、書いているとどうしてもユーモアを書いてしまう。
真剣で重厚なものを書いていると、

なんか恥ずかしくないか

そんな気分になってくるのだ。
本気過ぎるその感じ。
ひどく羞恥心が刺激されてしまい、書くのが嫌になる。
もっと言えば、それを読んで「泣いた」なんて聞かされたりすると、一応、僕は至極鷹揚に、そうかね、それは嬉しい褒め言葉だね、なーんて言いながら、腹の底ではいつもこう思っている。

もう勘弁して欲しい
穴があったら入りたい


こんなこと、真面目に考えている自分、書いてしまった自分、なんだか陶酔してそうな。

ああ!
見たくない
見たくない
見たくない


こういうわけで、僕の作品は、いつも悲劇と喜劇の間を間断なく往復するのだ。
そして、たいがい不徹底である。
どれもこれも、最終選考の一歩手前で落ちてしまうのは、きっとこの中途半端さのせいだろう。
審査をやった連中が実際どう思ったのか、それは僕にもよくわからないが。
少なくとも僕が審査員なら、ヘラヘラ笑いながら、

こいつは人間が弱い

と言って落とすかと思う。

……桜の咲く頃には、どうにか冒頭の一文が完成すればいい。
そう思いつつ、凝りもせずに書き始める用意を始める今日この頃である。
雑記 2016.03.02 (水)
デパスで頭がぼんやりしている。
昨日は煙草の買出しで四条河原町へ行った。
久々の娑婆の風にクラクラしながら、バス停で往来の車を見ていたのだが。
そういえば、というか、やっぱり、というか。
まるで80年代の車を見かけなくなった、という気がした。
どう旧くても90年代の後半、だいたいはこの10年ぐらいの車だろうか。

30年も前の車なんて、性能も悪いしボロだからではないか、そう思うかもしれないが。
自動車マニヤの僕に言わせれば、自動車の使い勝手や動力性能そのほかは、三十年前からそんなに変わっていない。
強いて現行モデルが30年前のものより優れていると断言できるとすれば、衝突したときの安全性能ぐらいだろうか。
たとえば乗りやすさ、操作性の明快さ、というような話だったらむしろ僕なら80年代車を選ぶ。
ま、探しても落ちてないから、乗ってみたらいい、と言っても意味がないのであるが、初代のホンダ・シティ、EP71スターレットなんて、一度乗ってしまえば今の新型なんぞ乗る気も失せるほど運転しやすいはずである。

それもそのはず、これはトヨタの開発の人から直に聞いた話なのだが、今の自動車は何よりもデザイン優先なのだ。
機能性も操作性も考えずにデザイナーが絵を描いて、設計と開発がそれについていく格好らしい。
しょっちゅう設計とデザインの間で喧嘩になるのだそうで、たいがい負けるのは技術者のほうであるのだとか。
今の新車を傍で見ていて僕がどう感じるかと言えば、

視界が悪そう
車両感覚が掴みにくそう
使いにくそう


こういう感じで、もうデザインを見ただけで試乗してみようか、という気にもなれない。
なんのどの車体、と具体的な話は止しておくが、よくあんなものに平気で乗っていられるナ、と思うものが目立つ。

80年代車が生き残っていない、今は誰も乗っていない、この理由は簡単で、もう部品がないからだ。
80年代以降の車の部品は高度に電子化されたものが多く、特に制御系の主要部品はメーカーでないと作れない。
イマドキの車体だったらバックミラーでも自動制御の一部に組み込まれていて、あんなもの、設計図をメーカーに公開してもらったってレプリカを作ることさえままならない。
七十年代以前の車だったら構造は簡単、そこらの町工場のおっさんがチョイチョイと似たような格好の部品を作っててきとうに組み付けたら動いたりするのだが、まさかコンピューター部品なんて個人で作れるわけもない。
80年代以降の車はメーカーに見捨てられたらオシマイ、こういうわけである。

僕はだいたい、一台買ったら最低でも10年ぐらい所有する人間である。
ま、二台同時に持っていて、もう一台は二年で叩き売ったとか、そういう話はあるものの、基本的に気に入って終えば、まァ、買い換えない。
新しい道具に慣れる、そういうのがまずもって面倒臭いし、生活がコロコロ変わるのは落ち着かなくて嫌いダ。
もっとも長く所有した一台は、半世紀以上前の車体だった。
貧乏になったので先日手放してしまったが、この車に至っては15年乗った。
というか、実を言うと、その前にも同じ形式の車体に8年乗っていた。
そっちのほうは、僕がまだ未熟だったこともあり、ちょっと間違えて状態を悪くしてしまい、それ以上修理するのもどうかと思って手放し、買い直したような格好である。
そこまで計算に入れると、僕は23年も同じ車に乗っていた、こういうことになるかと思う。
もし、経済力が続いていたら、たぶん、今でも文字通り「十年一日」、相も変わらずだったろうし、きっと死ぬまでそのまんまだったことは確実である。
こういう人間からすると、今の自動車というのは、もうカタログを見ただけで、

これが使い捨てかァ……

そんな気分になるだけである。
たとえあのフェラーリを見せられても、同じ事で、何か自動車メーカーに欺されているような気分にしかなれない。

僕が子供の頃は、未来というのは進歩するから、もっと愉しいかと思っていたのに。
案外、そうでもないのだな、と白けた気分の今日この頃である。

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