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歴史とか 2016.02.28 (日)
京都御苑のことを「御所」と呼ぶ人があるが、正確に言えばそれは間違いである。
御所というのは天皇、皇太子と同格の皇族の居所のことを言う。
まったくありえない、馬鹿馬鹿しいたとえ話をしてしまえば、たとえば、僕の巣穴は潜水艦の兵員居住区みたいなボロい2Kなわけであるが、畏れ多くも今上陛下がここへ遷幸なさり、

「朕はしばらくここを住まいとしたい」

と仰せになったら、僕の巣穴は「御所」になる。
これもありえないことだが、皇太子殿下が四条河原町のネカフェを大いにお気に召され、そこを定宿となさるなら、そのネカフェが東宮御所、ということになってしまうのである。
どっちも絶対にありえない話だが、極端を言えば「御所」とはつまりそういうことなのだ。
今の陛下のお住まいは例の江戸城跡の皇居であるから、京都御苑を御所と呼ぶのは適当ではないだろう。

平安京とは王城の地、万乗の君の宮殿があってそこに王朝文化が花開き……そんなイメージかと思う。
少女漫画の「あさきゆめみし」なんかの世界を想像する人も多かろう。
そして、その舞台となった大内裏は……と書きたいところなのだが――。

平安遷都から100年ほどで大内裏はすでに廃墟

本格的な律令国家が始まった直後、大内裏は衰退して放棄された格好、と申し上げたらどうだろう。
平安朝の絶頂期の有名人、と言えば藤原道長が筆頭かと思うが、彼の生年は966年、没年は1028年である。
この道長は若い頃に同僚と大内裏で肝試しをやり、たしかに奥まで入った証拠に殿舎の柱を削り取ってみせた、そんな話があるどころか、畏れ多くも、この万乗の君の宮殿の礎石を抜き取り、己の邸に転用したのだ!
もちろん、それには帝の勅許もあったにせよ、である。
道長の頃の大内裏は、もうどうなってもかまわない、とすっかり見捨てられた廃墟だった、こういうことだ。

では、なんで大内裏がそんな扱いで、再建されなかったのか?
この件については、一応、保元の乱の後に、少しサイズダウンして一時期復興したことはある、とは書いておく。
しかし、すぐに焼けてしまい、それからはやはりそのまま放置されたらしい。
大内裏の再建がなかった理由は様々の言い方がある。
それらを読んで僕がどう思うカ、まったくの独断と偏見、と断った上で書いてしまえば、

大内裏は必要がなかった
すでに用済み


こういうことかと思う。
隣国の隋や唐に倣った平安京の建設は、明らかに外交を意識したもの……他国の使節に見せつけて、どうだ、日ノ本は立派な律令国家だろう、と見せつける目的であったフシがある。
ハリボテっぽいあの羅城門、使節団をもてなす鴻臚館なんぞは遣唐使廃絶のあと、いきなり廃墟である。
遣唐使廃止は894年、遷都からジャスト100年目だ。
そして、それと同時に大内裏も廃墟になっている。
この頃の唐は内乱状態、渤海の連中はカネ儲けの話しかしない、という具合。
まともに外交をやる相手がいなくなったことでもあるので、国家の対面も何も必要がナイ。
中央集権国家ぶりっ子はもうイラネ、ということで、無駄に大仰な大宮殿、大内裏も用済みになった、そんなところだろう。

では、大内裏がダメになった後、御所がどこにあったのか、と言えば、これはもう、あっちこっち、としか言えない。
その時々の権力者、つまりは摂政関白が万乗の君を「お世話申し上げる」ということで、自邸にお向かえして、そこを「御所」としていただいていた……早い話が居候である。

どこが御所であったか?
この件については、摂関政治、あるいは院政などという面倒臭い話をしなくてはならない。
至極大雑把に書いてしまうと、この頃の帝は、必ず親孝行者でなくては許されなかった
親すら大事にできない奴が、なんで臣下や有象無象の臣民を大事にすることができるか?
親孝行もできない帝なんて、帝王の資格がそもそもないのだ、とばかり、この頃の帝は必ず親孝行であることを……ここまで書いて終っていいだろうか、いや、実際そうだから、ばっさり書いてしまおう。

ほぼ強要されているレベルで

親孝行を求められていたと言っていい。
制度上の権限の問題、道理のことはともかくとして、帝は親には絶対に逆らえない格好だった、と申し上げたらどうか。
もし、帝が親を蔑ろにするようなら、それは徳目を大事にできない、帝王の資質に欠ける人物なのであって、そのように見なされた場合、帝が玉座から引きずり下ろされておしまいになる、それぐらいの状態だったのだ。
自然、帝の御父君、父宮は、帝に言いたい放題、それに帝は逆らえないから、帝よりもエラいことになってしまい……摂関政治なら、帝の外戚が絶大な発言力と権限を掌握する格好になった。
早い話、関白が自分の娘を帝の后にして、皇子が授かれば次にその皇子が即位、すると関白は帝の直系尊属、絶対服従しないとイケナイ相手、ということになって、関白が事実上の為政者のようになるわけダ。
院政はこの変形である。
外戚を持たない三条帝が即位した途端、朝廷はにわかに天皇親政のような状況になった。
そこで三条亭は我が子に帝位をお譲りになって隠居、宮廷の外から帝を後見……帝に「親孝行をやらせた」。
人臣の外戚ではなく、こっちは太上天皇の父宮であるから、その説得力は抜群だ。
それで摂関政治は突然に終わってしまい、以降、上皇が権力を一手に握る格好になった、これが院政である。
摂関政治、院政とはこんなような話だと思えばいい。

こういうわけで、平安中期以降の朝政にとっては、誰が帝に父権を行使するか、これが極めて重要だった。
父であるからには、我が子の面倒をみないと格好がつかない。
そういうわけで、帝の父が変わると帝の「御所」もコロコロと場所が変わったのである。
これを「里内裏」という。、
平安時代の帝は案外肩身の狭いお立場だった、このように言えそうである。
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