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歴史とか 2015.05.01 (金)
此の国の山河襟帯にして自然に城を作す
斯の形勝に因りて新号を制すべし
宜しく山背国を改め山城国となすべし


「山城」の語源となった桓武帝の詔の言葉である。
三方を山、南に平野を控える京都盆地。
その中を流れる二本の河川、大井川と鴨川を天然の堀として平安京は造営された。
この文言は平安京の軍事的側面について語られる場合によく引用される。
しかし、大井、鴨の両河川は平安京とこの世界をつなぐ橋のごときものでもあった。
かつての大井と鴨の流れは平安京の側溝のような感じで南へ流れ、鳥羽のあたりで合流するような格好で巨椋池に注ぎ込んでいた。

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これは巨椋池の写真であるが、この池はもう存在しない。
現在はインターチェンジにその名を留めるのみである。
どうしてこの池が今は存在しないか?
明治政府が干拓事業をやってしまったからである。
例の富国強兵、産業増進であくせくやったときに、薩長の連中が池を田畑と土地に造り替えてしまったのだ。

巨椋池は平安京の命綱――おそらくは京都が本朝の首都であった長らくの間、少なくとも江戸幕府が政権を握る以前を言えば、この日本列島でももっとも重要な水上交通の要衝であったと断言できる。
巨椋池は平安京の南、周囲16キロの池であったわけだが、この池は木津川、淀川にも繋がっていた。
つまり、巨椋池は水路で奈良、大坂に接続していた、というわけである。
なんだ、船か、と思うなかれ、現代の話はともかく、鉄道輸送が存在しなかった時代の大量輸送は船と決まっている。
実際、世界的に見て港湾をもたない、つまりは水上輸送とは無縁の首都などは存在しない。
これは首都が必ず大量の物資と人員の輸送を必要とするためである。

奈良、大坂との接続だけでは巨椋池の重要性の説明には不十分である。
巨椋池のあるあたりからは琵琶湖が近い。
琵琶湖で船に乗れば敦賀、関ヶ原へはすぐに着く。
日本海側へ抜けるにも、東国へ向かうにも好都合、というわけである。
つまり、巨椋池に入りさえすれば、瀬戸内でも日本海でも、というわけである。
渤海から来る商人は敦賀から入国していたようであるし、唐や宋からの文物は鎮西から瀬戸内を経て都に入る。
いずれも巨椋池から入って来る、というわけである。
余談をしておくと、平安の頃に檳榔毛の車というのがあったのをご存じだろうか。
これはヤシ科の植物の檳榔で車を覆ったものだったかに思う。
四位以上の高位の者、親王や大臣でなければ許されない高貴な乗物だったわけであるが、檳榔は九州にあった摂関家の島津荘から都に送られており、藤原摂関家が独占していたらしい。
この檳榔は東南アジアの産品、、、たぶんフィリピンとかインドネシアとか、そのあたりかと思うのだが、とまれ、琉球を通って島津荘、そこから平安京に到達する、という格好だったようである。
つまり、平安時代の時点で、平安京はすでにアジア全域と当たり前のように繋がっていた、というわけである。

ところでこの巨椋池は歴史ドラマ、歴史小説にはほとんど出て来ない。
しかし、実際は様々な歴史的舞台にはなっているはずなのであるが。
平安時代と言えば藤原摂関家であるが、摂関家の本拠地の宇治は、宇治川が巨椋池に注ぐ河口のあたりである。
保元の乱の直前、摂関家の氏長者の藤原頼長が乱闘事件を起こした際、頼長の父の忠実は船で上洛する途中だった、とあるから、巨椋池から鴨川をさかのぼったのだろう。同じく頼長は保元の乱で負傷した際、大井川から小舟に乗って木津川を通って南都へ逃れ、敗死している。これもまた巨椋池を通過したに決まっている。
あるいは伏見港は巨椋池に開かれた港である。
秀吉は淀川の水辺に淀城を設置、そこに水軍を配置してガッチリと巨椋池を守り込んでいた。
秀吉の晩年の居城となった伏見城の天守からは大坂城の狼煙が目視できたそうである。
つまり、なんぞあったら巨椋池を通って船で即移動、こういう格好になっていた、というわけだ。
ちなみに、平安京から大坂まで船で移動する場合の移動時間は、下りで四時間程度であったらしい。
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